WHO IS JOHN HYPE? (ジョンハイプって?)
ジャマイカのスタジオから生まれるダンスホールのリディム。
そのリディムに合わせ、独自の想像力で新しいダンスの動きを創り出しダンスホールのシーンに新しい革命を起こしたダンサーJOHN HYPE(ジョンハイプ)。
昨年は"SIGNAL DI PLANE"や"FAN DEM OFF"を始めジャマイカ中を踊らせた"PON DI RIVER"など数々の流行ダンスを創作。
このPON DI RIVERは、SEAN PAULやELEPHANT MANのPVなどの影響もあって一世風靡となった。
そこで今回のニュースでは、このJOHN HYPEというカリスマ的ダンサーにスポットをあて彼のインタビューを紹介したいと思います。
場所はキングストンのスタジオにあるSHOCKING VIBESのオフィスにて。
※以下の「」はすべてJOHN HYPEの発言です
「俺のダンスはすべて"HOT MONDAY"で創作したんだ。
HOT MONDAYは俺の場所であり俺のホームであり俺のダンシングスクールでもある。
最初の頃は5人くらいしか集まらなかった時からずっと通い続けてここまで盛り上げてきたんだ。
"DRIVE BY"以外のダンスはすべて、このHOT MONDAYでリディムを聴きながら自分のマインドとボディで作ったんだ」
(※HOT MONDAYとは、セレクターのFIRE LINKSが主催のフリーのロードダンス。ローカルで最も熱いダンスホールスポットだったが、警察の手入れなどが厳しく今は曜日や場所が変わっている)
BLACK ROSES CREW MEMBER (ブラックローゼス・クルーのメンバー)
JOHN HYPEのデビューはBOGLEと一緒に参加したBLING DAWGのヒット曲「ZIP IT UP」のミュージックビデオの出演。
これがきっかけでJOHN HYPEはBLACK ROSES CREWのメンバーとして知られるようになる。
ところが2001年4月18日、BLACK ROSES CREWの代表WILLIAM "WILLIE HAGGART" MOORE 氏の突然の死。
これに続きBOGLE(BLACK ROSES CREWのダンサー)もアメリカへと移住した。
(※詳しくは"BOGLEインタビュー"記事を参照)
「ウィリーが他界した後、ダンスホールのシーンは止まった。
誰もダンスに行こうとしなかったし、外に出ることすら恐れていた。
その時、もう一度ロードダンスを始めようって思ったんだ。
みんなは「恐くないか?」って聞いてきたけど俺よりも大物がどこにいる?俺は神のいうとおりにしてるだけだって言って
そしてロードダンスは復活したんだ」
JOHN HYPEが創作したダンス"DRIVE BY"は2001年後期に大流行した。
「このダンスを作った時、本当は"BENTLEY"ってダンス名を付けたんだ。
だけどみんなはこれを"DRIVE BY"と呼んだ。
"DRIVE BY"と主張していたのは権力に裏づけられて服従してた奴らだったのさ」
2002年前期、JOHNは"HIGHER LEVEL"を創作。
このダンスでJOHNは一躍有名なダンサーとなる。
「"HIGHER LEVEL"は"DIWALI"のリディムに合わせて作ったんだ。
"DIWALI"リディムにクラップのダンスは違うって単純に思ったから、違うスタイルでアピールしたのが "HIGHER LEVEL"だったんだ」
それ以降もJOHNは"PON DI RIVER"や"SIGNAL DI PLANE"、"CHAPLIN"、"HEAD NO GOOD"、
夏には"ROCKAWAY"と"BLAZE"を創作した。
「俺はDANCEHALLを変えたんだ。
"DANCEHALL IS NICE AGAIN"と声をかけてみんなをダンスに呼び戻した。
これもSTONE LOVEのFATHER POWELLと俺のすべてのダンスの名付け親、FIRE LINKSのおかげさ。
マジでBIG UPだよ」
DEEJAYやパフォーマーはダンサーの仕事に対してRESPECTしない傾向があるというが、それについてJOHNは
「評価の問題だよ。
ジャマイカのDEEJAY達はダンサーを目立たさせないようにしている。
ジャネットジャクソンのような海外の大物のアーチスト達のステージを見ればわかるけど、
どこのツアーに出るにも必ず20人以上のバックダンサーを引き連れていくだろ?
だから俺と契約したSHOCKING VIBESとBEENIE MAN (MOSES ANTHONY DAVIS)にすごく感謝してるよ。
だって自分がこれから何をすればいいのかっていうチャンスを与えてくれたからね。
まさか毎週のように仕事で海外に行くなんて思ってもなかったことだから‥」
JOHNは自分の頭を振りながら言った。
ちょうどJOHNはST.MARTINでの契約の仕事を終え、
次にST.THOMASで名プロデューサー(兼ラッパー)のJERMAINE DUPRI氏と大スターのJANET JACKSONと会ってきたところだった。
「ダンスを愛してるよ。踊ることは俺のライフスタイルだからね。
女の子や子供達のために踊ってるんだ。
JOHN HYPEのダンスはかわいくて簡単だって言う奴もいるが、じゃぁ君は一人でダンスしてて楽しいの?って
逆に俺の方が聞きたいね(笑)
昔はモデルのように着飾り、ポーズを決めて突っ立ってたけど今はみんな汗びっしょりになるまでダンスをする。
ダンスは戦争を止めることだってできる。
どこにいてもみんなと一緒にダンスをして楽しみと愛を分ち合う。
そこには人種差別もない。ただ純粋に愛と楽しむことだけがあるんだよ」
RELATIONSHIP WITH BEENIE MAN (ビーニマンとの関係)
BEENIE MANとの出会いは、JOHN HYPEがBLACK ROSES CREWのメンバーとして活動していた全盛の頃だった。
その数カ月後、JOHNはBLACK ROSES CREWから離れて独自で活動を始めることになる。
「ある晩、いつものようにHOT MONDAYに行ったら、BEENIE MANが俺の所に来て言ったんだ。
君のダンスと契約をしたい。
さもないと今までの5〜6年間、君が何のために踊ってきたのかがわからなくなるよと、、、
でもその時の俺には意味がわからず、話は右から左へと抜けてしまって頭の中に何も残らなかったんだ。
その後BEENIE MANが6週間のツアーから戻ってきてHOT MONDAYに現れた。
で、俺のとこに来て前回と同じことを言った後、俺を"JOKER"(最後の切り札)だと言ったのさ。
それから家に行くことになって、彼が言ったことの意味をもう一度考えさせられた。
それは更なる上を目指すための勇気とインスピレーションを俺に与えた。
みんなはBEENIE MANとの関係はハイプなことだって思うかもしれないけどそれは違う。
これは純粋な友情関係だ。
BEENIE MANは本物のダンサーだよ。
彼は、何が俺に出来るのかを知っていてそれを高く評価してくれたんだ」
FEELS SLIGHTED BY ELEPHANT MAN (エレファントマンの侮辱)
ELEPHANT MANのヒットシングル"PON DI RIVER"のリリックの中で
「...JOHN HAVE A NEW DANCE AH ROCK JAMAICA AND BRONX...」と歌っている箇所があるが、
このダンスの創作者がJOHN HYPEだというクレジットがどこにもないとJOHNは言っている。
「ELEPHANT MANにはもっと誠実さが必要だね。
DEEJAYとしての彼は大好きだけどね、、、
誠実さってもんがない。
彼は俺のタレント性を認めたくないんだ。
それにこんな話もある。
ある早朝に、ELEPHANT MANが突然やって来て、ベッドで寝ていた俺を起こすなり
『おい!シグナルデプレインのダンスってどうやるんだ? 』って聞いてきた。
かと思ったら、それから一度だってダンスのチェックにすら戻って来ない。
彼がなんと言おうが、俺にダンスを止めさせることはできないよ」
またPON DI RIVERのダンスの創作者はJOHNであるにもかかわらず、
PVの録りではJOHN本人に声すらかけなかったのは侮辱であると言い足した。
「ELEPHANT MANは俺にRESPECTの気持ちがないんだ。
PON DI RIVERのPVの撮影の時、奴は声をかけてこなかった。
だが偶然にもその撮影の日、彼女とCAYMANAS POLO CLUBのそばの川に遊びに行ってたんだよ。
そこでPON DI RIVERの撮影現場を目撃した。
俺はその場に行って、急遽撮影に加わることになった。
だからたまたまビデオに出演してるんだ。
俺の姿を見た時のELEPHANT MANはかなり動揺してたよ。
録りの途中で雨が降ってきて撮影は中止になった。あれはJAHの仕業さ。
なぜって、あのビデオで着ている俺の服見ただろ?
誰がわざわざビデオの撮影にあんな服を着てくるんだ?」
JOHNの声は怒りで震えていた。
ELEPHANT MANのマネージャーのQ45はこのビデオ撮影の件については一切知らないと語っている。
BEEF WITH BOGLE (ボーグルに言いたい事)
JOHN HYPEは長い間BLACK ROSES CREWのダンサーBOGLEと一緒にいたが、
意見の相違などの理由で二人は離れることになった。
「BOGLEの事は大好きさ。でも彼はすべての事に対して心を入れ替える必要がある。
何年間もずっと一緒に行動していたってことは、みんな知ってることさ。
BOGLEが海外に移住してた時、いつ戻ってきても心配ないから帰ってくるように説得したのも俺だった。
なのに戻ってくるなり、俺に対して敵意をむき出しにして攻撃し始めたんだ。
だからみんなの愛を失ってしまった。
俺はBOGLEをディスしてないのに、なんで敵意をむける?
彼は心の中にあるBAD MINDを取り除かなきゃいけないね」
HIGHER LEVEL SQUAD (ハイヤーレベル・スクワッド)
みんながより楽しめるダンスを創作するために、
JOHNは11人のコアなダンサーを集めて"HIGHER LEVEL SQUAD"を結成した。
彼らは全員キングストンのLYNDHURST RD.、 DILLON AV.、ROUSSEAU RD.の出身のダンサーだ。
JOHNはこの11人の"HIGHER LEVEL SQUAD"の活動促進の手助けもしていて、
そのうち7人は今現在、海外でも活躍している。
またSHOCKING VIBESのネットワークを通じて、
Labba Labbaという60歳のダンサーの海外でのショーのマネージメントにも関与している。
※Labba Labbaの創作した有名なダンスにスイムバイやパラシュートなどがある
「これは特定の誰かにだけということではないし、もちろん 俺だけっていう意味でもないんだ。
ジャマイカの音楽シーンに貢献しているダンサーは他にもたくさんいるからね。
みんなが上がっていくための手助けをしたいって思ってるんだ」
そう語るJOHNも今だDILLON ROAD地区での生活だ。
さらに彼はSHOCKING VIBES PRODUCTIONの系列の下、"RIVER TO THE BANK"というプロダクションを設立した。
THINGS ABOUT JOHN HYPE (ジョンハイプについて)
■本名:
JONATHAN PRENDERGAST
■ステージネーム:
JOHN HYPE (FIRE LINKSが名付け親)
■生年月日:
1978年6月10日
■学歴:
MELROSE、その後はHOLY TRINITY中等学校
■コミュニティ:
DILLON AVENUE, KINGSTON5
■母親の名前:
CLOVER THOMPSON
■趣味:
フットボール。
SPANISH TOWN/PORTMORE LEAGUEではフォワードを担当。
ゴールスコアのトップ賞も獲得している。
■影響を受けた人物:
今までに一番インスピレーションを受けた人はBOGLE。
俺達はいつも一緒に踊ってた。
ダンスに関することすべてはBOGLEから教わったんだ。
WILLIE HAGGARTの惨事が起こる前までは、どこに行くにもいつも一緒だったし毎晩のようにASYLUMでダンスを教わってたよ。
BOGLEはよく俺に言ってた。
「決して尻込みしてちゃ駄目だ。いつでも上に前に向かっていかなきゃな!すべてはそこから始まるんだ‥」
(Lady-K)