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Dancehall Queen Reportやダンスホール事情、ダンサーインタビュー、ジャマイカのダンス情報などを中心にお届けします☆

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A Dancing Machine "JOHN HYPE" インタビュー

WHO IS JOHN HYPE? (ジョンハイプって?)

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ジャマイカのスタジオから生まれるダンスホールのリディム。

そのリディムに合わせ、独自の想像力で新しいダンスの動きを創り出しダンスホールのシーンに新しい革命を起こしたダンサーJOHN HYPE(ジョンハイプ)。

昨年は"SIGNAL DI PLANE"や"FAN DEM OFF"を始めジャマイカ中を踊らせた"PON DI RIVER"など数々の流行ダンスを創作。

このPON DI RIVERは、SEAN PAULやELEPHANT MANのPVなどの影響もあって一世風靡となった。

そこで今回のニュースでは、このJOHN HYPEというカリスマ的ダンサーにスポットをあて彼のインタビューを紹介したいと思います。

場所はキングストンのスタジオにあるSHOCKING VIBESのオフィスにて。

※以下の「」はすべてJOHN HYPEの発言です

「俺のダンスはすべて"HOT MONDAY"で創作したんだ。
HOT MONDAYは俺の場所であり俺のホームであり俺のダンシングスクールでもある。

最初の頃は5人くらいしか集まらなかった時からずっと通い続けてここまで盛り上げてきたんだ。

"DRIVE BY"以外のダンスはすべて、このHOT MONDAYでリディムを聴きながら自分のマインドとボディで作ったんだ」

(※HOT MONDAYとは、セレクターのFIRE LINKSが主催のフリーのロードダンス。ローカルで最も熱いダンスホールスポットだったが、警察の手入れなどが厳しく今は曜日や場所が変わっている)

BLACK ROSES CREW MEMBER (ブラックローゼス・クルーのメンバー)

JOHN HYPEのデビューはBOGLEと一緒に参加したBLING DAWGのヒット曲「ZIP IT UP」のミュージックビデオの出演。

これがきっかけでJOHN HYPEはBLACK ROSES CREWのメンバーとして知られるようになる。

ところが2001年4月18日、BLACK ROSES CREWの代表WILLIAM "WILLIE HAGGART" MOORE 氏の突然の死。

これに続きBOGLE(BLACK ROSES CREWのダンサー)もアメリカへと移住した。
(※詳しくは"BOGLEインタビュー"記事を参照)

「ウィリーが他界した後、ダンスホールのシーンは止まった。
誰もダンスに行こうとしなかったし、外に出ることすら恐れていた。

その時、もう一度ロードダンスを始めようって思ったんだ。

みんなは「恐くないか?」って聞いてきたけど俺よりも大物がどこにいる?俺は神のいうとおりにしてるだけだって言って
そしてロードダンスは復活したんだ」

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JOHN HYPEが創作したダンス"DRIVE BY"は2001年後期に大流行した。

「このダンスを作った時、本当は"BENTLEY"ってダンス名を付けたんだ。
だけどみんなはこれを"DRIVE BY"と呼んだ。
"DRIVE BY"と主張していたのは権力に裏づけられて服従してた奴らだったのさ」

2002年前期、JOHNは"HIGHER LEVEL"を創作。

このダンスでJOHNは一躍有名なダンサーとなる。

「"HIGHER LEVEL"は"DIWALI"のリディムに合わせて作ったんだ。

"DIWALI"リディムにクラップのダンスは違うって単純に思ったから、違うスタイルでアピールしたのが "HIGHER LEVEL"だったんだ」

それ以降もJOHNは"PON DI RIVER"や"SIGNAL DI PLANE"、"CHAPLIN"、"HEAD NO GOOD"、
夏には"ROCKAWAY"と"BLAZE"を創作した。

「俺はDANCEHALLを変えたんだ。
"DANCEHALL IS NICE AGAIN"と声をかけてみんなをダンスに呼び戻した。

これもSTONE LOVEのFATHER POWELLと俺のすべてのダンスの名付け親、FIRE LINKSのおかげさ。
マジでBIG UPだよ」

DEEJAYやパフォーマーはダンサーの仕事に対してRESPECTしない傾向があるというが、それについてJOHNは

「評価の問題だよ。
ジャマイカのDEEJAY達はダンサーを目立たさせないようにしている。

ジャネットジャクソンのような海外の大物のアーチスト達のステージを見ればわかるけど、
どこのツアーに出るにも必ず20人以上のバックダンサーを引き連れていくだろ?

だから俺と契約したSHOCKING VIBESとBEENIE MAN (MOSES ANTHONY DAVIS)にすごく感謝してるよ。

だって自分がこれから何をすればいいのかっていうチャンスを与えてくれたからね。

まさか毎週のように仕事で海外に行くなんて思ってもなかったことだから‥」

JOHNは自分の頭を振りながら言った。

ちょうどJOHNはST.MARTINでの契約の仕事を終え、
次にST.THOMASで名プロデューサー(兼ラッパー)のJERMAINE DUPRI氏と大スターのJANET JACKSONと会ってきたところだった。

「ダンスを愛してるよ。踊ることは俺のライフスタイルだからね。
女の子や子供達のために踊ってるんだ。

JOHN HYPEのダンスはかわいくて簡単だって言う奴もいるが、じゃぁ君は一人でダンスしてて楽しいの?って
逆に俺の方が聞きたいね(笑)

昔はモデルのように着飾り、ポーズを決めて突っ立ってたけど今はみんな汗びっしょりになるまでダンスをする。

ダンスは戦争を止めることだってできる。

どこにいてもみんなと一緒にダンスをして楽しみと愛を分ち合う。

そこには人種差別もない。ただ純粋に愛と楽しむことだけがあるんだよ」

RELATIONSHIP WITH BEENIE MAN (ビーニマンとの関係)

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BEENIE MANとの出会いは、JOHN HYPEがBLACK ROSES CREWのメンバーとして活動していた全盛の頃だった。

その数カ月後、JOHNはBLACK ROSES CREWから離れて独自で活動を始めることになる。

「ある晩、いつものようにHOT MONDAYに行ったら、BEENIE MANが俺の所に来て言ったんだ。

君のダンスと契約をしたい。
さもないと今までの5〜6年間、君が何のために踊ってきたのかがわからなくなるよと、、、

でもその時の俺には意味がわからず、話は右から左へと抜けてしまって頭の中に何も残らなかったんだ。

その後BEENIE MANが6週間のツアーから戻ってきてHOT MONDAYに現れた。

で、俺のとこに来て前回と同じことを言った後、俺を"JOKER"(最後の切り札)だと言ったのさ。

それから家に行くことになって、彼が言ったことの意味をもう一度考えさせられた。

それは更なる上を目指すための勇気とインスピレーションを俺に与えた。

みんなはBEENIE MANとの関係はハイプなことだって思うかもしれないけどそれは違う。
これは純粋な友情関係だ。
BEENIE MANは本物のダンサーだよ。

彼は、何が俺に出来るのかを知っていてそれを高く評価してくれたんだ」

FEELS SLIGHTED BY ELEPHANT MAN (エレファントマンの侮辱)

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ELEPHANT MANのヒットシングル"PON DI RIVER"のリリックの中で
「...JOHN HAVE A NEW DANCE AH ROCK JAMAICA AND BRONX...」と歌っている箇所があるが、
このダンスの創作者がJOHN HYPEだというクレジットがどこにもないとJOHNは言っている。

「ELEPHANT MANにはもっと誠実さが必要だね。
DEEJAYとしての彼は大好きだけどね、、、
誠実さってもんがない。

彼は俺のタレント性を認めたくないんだ。

それにこんな話もある。

ある早朝に、ELEPHANT MANが突然やって来て、ベッドで寝ていた俺を起こすなり
『おい!シグナルデプレインのダンスってどうやるんだ? 』って聞いてきた。

かと思ったら、それから一度だってダンスのチェックにすら戻って来ない。
彼がなんと言おうが、俺にダンスを止めさせることはできないよ」

またPON DI RIVERのダンスの創作者はJOHNであるにもかかわらず、
PVの録りではJOHN本人に声すらかけなかったのは侮辱であると言い足した。

「ELEPHANT MANは俺にRESPECTの気持ちがないんだ。
PON DI RIVERのPVの撮影の時、奴は声をかけてこなかった。

だが偶然にもその撮影の日、彼女とCAYMANAS POLO CLUBのそばの川に遊びに行ってたんだよ。

そこでPON DI RIVERの撮影現場を目撃した。

俺はその場に行って、急遽撮影に加わることになった。
だからたまたまビデオに出演してるんだ。

俺の姿を見た時のELEPHANT MANはかなり動揺してたよ。
録りの途中で雨が降ってきて撮影は中止になった。あれはJAHの仕業さ。

なぜって、あのビデオで着ている俺の服見ただろ?
誰がわざわざビデオの撮影にあんな服を着てくるんだ?」

JOHNの声は怒りで震えていた。

ELEPHANT MANのマネージャーのQ45はこのビデオ撮影の件については一切知らないと語っている。

BEEF WITH BOGLE (ボーグルに言いたい事)

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JOHN HYPEは長い間BLACK ROSES CREWのダンサーBOGLEと一緒にいたが、
意見の相違などの理由で二人は離れることになった。

「BOGLEの事は大好きさ。でも彼はすべての事に対して心を入れ替える必要がある。
何年間もずっと一緒に行動していたってことは、みんな知ってることさ。

BOGLEが海外に移住してた時、いつ戻ってきても心配ないから帰ってくるように説得したのも俺だった。

なのに戻ってくるなり、俺に対して敵意をむき出しにして攻撃し始めたんだ。

だからみんなの愛を失ってしまった。

俺はBOGLEをディスしてないのに、なんで敵意をむける?
彼は心の中にあるBAD MINDを取り除かなきゃいけないね」

HIGHER LEVEL SQUAD (ハイヤーレベル・スクワッド)

みんながより楽しめるダンスを創作するために、
JOHNは11人のコアなダンサーを集めて"HIGHER LEVEL SQUAD"を結成した。

彼らは全員キングストンのLYNDHURST RD.、 DILLON AV.、ROUSSEAU RD.の出身のダンサーだ。

JOHNはこの11人の"HIGHER LEVEL SQUAD"の活動促進の手助けもしていて、

そのうち7人は今現在、海外でも活躍している。

またSHOCKING VIBESのネットワークを通じて、
Labba Labbaという60歳のダンサーの海外でのショーのマネージメントにも関与している。

※Labba Labbaの創作した有名なダンスにスイムバイやパラシュートなどがある

「これは特定の誰かにだけということではないし、もちろん 俺だけっていう意味でもないんだ。
ジャマイカの音楽シーンに貢献しているダンサーは他にもたくさんいるからね。
みんなが上がっていくための手助けをしたいって思ってるんだ」

そう語るJOHNも今だDILLON ROAD地区での生活だ。
さらに彼はSHOCKING VIBES PRODUCTIONの系列の下、"RIVER TO THE BANK"というプロダクションを設立した。

THINGS ABOUT JOHN HYPE (ジョンハイプについて)

■本名:
JONATHAN PRENDERGAST

■ステージネーム:
JOHN HYPE (FIRE LINKSが名付け親)

■生年月日:
1978年6月10日

■学歴:
MELROSE、その後はHOLY TRINITY中等学校

■コミュニティ:
DILLON AVENUE, KINGSTON5

■母親の名前:
CLOVER THOMPSON

■趣味:
フットボール。
SPANISH TOWN/PORTMORE LEAGUEではフォワードを担当。
ゴールスコアのトップ賞も獲得している。

■影響を受けた人物:
今までに一番インスピレーションを受けた人はBOGLE。
俺達はいつも一緒に踊ってた。
ダンスに関することすべてはBOGLEから教わったんだ。
WILLIE HAGGARTの惨事が起こる前までは、どこに行くにもいつも一緒だったし毎晩のようにASYLUMでダンスを教わってたよ。

BOGLEはよく俺に言ってた。
「決して尻込みしてちゃ駄目だ。いつでも上に前に向かっていかなきゃな!すべてはそこから始まるんだ‥」

(Lady-K)

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2004 International Dancehall Queen Report - Kiyo (Lovemilk)3位獲得

はじめに・・・

2004年7月31日の土曜日の夜にジャマイカのモンティゴベイにある"PIER ONE"にて、第8回目の「INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST」が開催されました。

このコンテストに、私が長年付き合いをさせてもらってる日本のトップダンサーの LOVE MILKの"KIYO"が急遽出場することに決まり、私自身にとっても特別な年となりました。

INTERNATINAL DANCEHALL QUEEN CONTEST 2K4

そもそもKIYOがなぜ今年の「INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST」に出場することになったかというと、
このコンテストが開催される1週間前に、NEW YORKのAMAZURAで開催された「MISS U.S.A. DANCEHALL QUEEN CONTEST」で"2位を獲得したことで
ジャマイカのD.H.Q.CONTESTのプロモーター "BIG HEAD"氏から出場のオファーがきたというのが経緯。

結局、2004 N.Y.QUEENの"AYANNA ARMSBY(通称:YANNI)" と
2位のKIYOがジャマイカのD.H.Q CONTESTに出場するためモベイ入りすることとなりました。
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KIYO@2004 INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST
(写真提供:KIYO)

「2004 INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST」の出場者は全部で27人。

出場者のほとんどはモベイ、キングストン出身のダンサーだったが、
今年はアメリカのニューヨーク州、フロリダ州、ジョージア州、スウェーデン、
日本、カナダ、ベリーズ(中央アメリカの国)、トリニダードなど各国の代表ダンサー達が出場。

更にレベルの高い「INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST」となったようです。

さてここからは ジャマイカのニュース記事と"KIYO"本人のコメントも交えながら、コンテストの内容を簡単に紹介したいと思います。

まず最初の予選ラウンドで27人の出場者全員が40秒間でダンスアピールして1ラウンド目が始まります。

この27人から15人、10人へと絞られ、最終的に5人が残り、ベスト3が選ばれます。

1ラウンド目は出場者全員が同じチューンで踊り、2・3ラウンド目は自分の好きな曲でダンスを競います。

2ラウンド目では、ちょっとしたハプニングもあったようで、
KIYOが指定していたチューンと違うマイアミベースのエリの曲(GAL)が突然かかってしまったようだが、ここは無難に踊れたようです。
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KIYO@2004 INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST
(写真提供:KIYO)

3ラウンド目では、勝ち残った10人の挑戦者全員にコンテストの進行役 "JERRY D"からの質問タイムがあります。

ここで答えた挑戦者達の会場の反応もコンテストの点数に加わります。

今回、会場のサポーター達から最も大きな喝采を浴びたのは、今年のQUEENとなった"LATESHA BROWN" (ラティシャ・ブラウン)。

「もしあなたがこの世でたった一人にだけ全能を与えることが出来るとしたら誰を選びますか?」というような問いに対して、
聖教徒であるLATESHAは「ジーザス」と答え、会場をBOSSさせたようです。

ちなみにここでの"KIYO"への質問と返答の内容は?というと‥

JERRY D: 「もしあなたに選択件があるのなら彼氏とDHQどっち取りますか?」

KIYO: 「いや、彼氏はいません!」(笑)
KIYO: 「私は英語が喋れないけど、ダンスが好きだから今ここにいるのよ!」

この返答に会場から「THAT'S RIGHT!!」という声があがったよう。

そして4ラウンド目は勝ち残った5人のダンサー達が競い合い、BEST 3が選ばれます。

このラウンドで "KIYO"は審査員席に座っていた"NIKKI OUCH"の椅子を借りてダンスをパフォーマンスしようとしたところ、"NIKKI"に「NO!!」と断られてしまい
一瞬ダンスするのを中断して、会場からブーイングを受けるというハプニングも起きたとか!?

結果報告

最終的に「第8回 INTERNATINAL DANCEHALL QUEEN CONTEST 2K4」の優勝トロフィと賞金$100000を獲得したのは18才のST. CATHERINEの PORTMORE出身"LATESHA BROWN"

2位のトロフィと賞金$50,000を獲得したのはCANADAの"MOMO ONIDA"

3位のトロフィと賞金$30,000を獲得したのは日本の"KIYO AKIBA"
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KIYO@2004 INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST
(写真提供:KIYO)

そして、この日のベストドレッサー賞を獲得したのはNEW YORK出身の"AYANNA ARMSBY"(通称 YANNI)

彼女は先にも書いたとおり、NEW YORKで行われた「MISS U.S.A. DANCEHALL QUEEN CONTEST」で1位を獲得しているダンサー。

今回KIYOと一緒にJAのDHQ CONTESTに出場したことがきっかけで二人の間に友情関係が芽生えた。

KIYO いわく「"YANNI"は海外での私の相方」

2004 DANCEHALL QUEEN "LATESHA"

今年の「INTERNATINAL DANCEHALL QUEEN CONTEST 2K4」で見事 DANCEHALL QUEENを獲得した18才の "LATESHA BROWN" は昨年のDANCEHALL QUEEN " MICHAEL MCKOY"(通称 MAD MICHAEL)の手によって王冠を飾った。

LATESHAは「本当に嬉しい!」と喜びの気持ちを伝えた後、
「この王冠なくては家には帰れなかったわ。だってママに結果報告して今日のビデオを見せたかったから」

このコンテストで優勝するためには、X-RATEDなダンスをしなければいけないと思っていた
と語るLATESHAのダンスは、それは間違っているということを証明した。

彼女のダンスに関していうならば、
皆が期待しているような"X-RATED"なダンスは抜きで優勝したのだ。

そして今年の審査員の顔ぶれは UWIの" CAROLYN COOPER"(審査員長)やアメリカのトップモデル"Camile McDonald"などが参加し、最後に 審査員全員が"LATESHA"に手を上げた。

この日のコンテストについて、審査員長のCOOPER氏は
「今夜のイベントはすばらしかった。この事は明らかに私達のルーツ&カルチャーであり、
アフリカから伝わっているものであるのは明らかである」 と語っている。

この日のゲストダンサーは"2002 DHQ JUNKO"と"2003 DHQ MAD MICHEAL"!!
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★2004 DANCEHALL QUEEN "LATESHA BROWN"
(写真提供:JAMAICA OBSERVER)


聖☆インタビュー


そんな中、日本に帰国間際のBROOKLYN滞在中のKIYOにインタビュー!

Q1: 初のJA DHQ CONTESTに出場して3位を獲得した瞬間の気持ちって?

KIYO : 、、、3位かぁ、、、て感じです。笑
でも安心したって気持ちもありました。入賞出来て良かった。かなぁ。。

Q2: 今回出場してよかったと思うこと、また後悔していることってある?

KIYO : 後悔はないです。

いろいろ勉強になったし反省点も見えたし。
でもコンテスト目的でこっちに来た訳じゃなくてガイダンスっていうか流れでこういう形になったのでそれが素晴しいし、出て良かったと思う。
海外の友達が出来たのが何より嬉しい!
NYの1位のyanniがいなかったらこんな気持ちになんなかったかも。。
彼女のgood vibesをもらいました♪

Q3: 今後の意気込みがあれば是非聞かせて!

KIYO : たった3ヵ月の海外生活で自分のアピールが出来て良かったです。
自分の夢があるのでそれに1歩近づいたので、
海外からオファーが来る限りいろいろ動きたいと思います。
でもまぁ、風任せで。。ガイダンスって感じで。。

KIYO in L.A.

7月4日にL.A.で行われた MIGHTY CROWNのダンス"GRAND OPENNING INDEPENDENCE DAY BASH"の模様です。

このためにN.Y.からL.A.に飛んだという聖がせっかく画像を送ってくれたので!

ここでも聖は地元のSISTERとDANCE CLASHになったとか?
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KIYO@GRAND OPENNING INDEPENDENCE DAY BASH
(写真提供:KIYO)

「こっち(海外)に来てからクラッシュばっか やってる気が。。。」(KIYO)

あとがき

BROOKLYNに滞在中の聖の電話で、NYでのダンスコンテストの結果報告と一緒に今年JAMAICAで開催される「D.H.Q. CONTEST」への出場の話を聞いた時から、私の興奮はどんどん高まってしまい、それはコンテストが終了し結果報告が届くまでの間ずっと止まず。。。

同じような気持ちだった人達、たくさんいると思います。
とにかく3位入賞おめでとう!
いや、来年リベンジ??。。。

何よりも今回の海外での経験がきっと聖ちゃんの夢への大きなステップだと思うしこれからの活躍を何より楽しみにしてます。

まずは今年のコンテストのビデオが見たい!ってのが正直なところです。

そして最後に‥

聖の通訳として、現地まで同行し最後までサポートしたNEW YORK在住の日本人サウンド"KING JAM"のピッカルさんお疲れ様!
そしてキングストンから速報を送ってくれたトモコさん、
日本で聖を応援していたすべてのサポーターの方達に最大の感謝を。

RESPECT.

(TRANSLATED & TEXT BY Lady-K)
(写真・情報提供:JAMAICA OBSERVER, KIYO)

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Dancehall Queen 2K3 "Mad Michelle"インタビュー

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今回は「2003 DANCEHALL QUEEN」の "MAD MICHELLE"(マッド ミシェル) を紹介したいと思います。

"2003 DANCEHALL QUEEN CONTEST"や"FIRE LINKS HOT MONDAY 1st ANNIVERSARY"
" JAMAICAN MUSIC VIDEO"などのビデオを見たことがある人は
彼女のダンスが"MAD"であることはすでにご存じでしょう。

昨年の8月にJAMAICAのMO BAYにあるPIER ONE COMPLEXで開催された
「INTERNATIONAL DANCEHALL QUEEN CONTEST 2K3」で
見事優勝を勝ち取った21歳の女性ダンサー "MAD MICHELLE"。

このステージネームは ELEPHANT MANが名付け親で
本名はANN-MARIE-MARVETT MICHELLE MCKOY。

ちなみにDHQ CONTEST 2K3に出場した時は"REAL MCKOY"というステージネームです。

NEW HAVENにある彼女の家を訪ねたところ、
MICHELLEは白のUNION BAYのシャツとブルーデニムパンツというフルファッションで
インタビューに応じてくれた。

背が低く小柄で派手なメイクアップにラテン系の顔立ち。

そして小さな身体には7つのTATTOO(タトゥ)が入っている。

最初 彼女ははにかみながら「頭痛がする」と言いその場になじめず落ち着かない様子だったが、
しばらくするとリビングのソファーでくつろぎ、話を始めた。

実際はフレンドリーな女性のようである。

MICHELLEのインタビューでは母親のKAREN SPENCEからも話を聞くことが出来た。

KARENはソファーの手すりに腰掛け、娘がなぜこれほど音楽を愛し、ダンスを愛しているのかについて語り、
その間MICHELLEは静かに母親のことを洞察していた。

KARENは、かつての自分はダンサーで、そこのコミュニティのクィーンだったこと、
そしてMICHELLEの父親と出会ってすぐに妊娠したが、それにもかかわらずダンスに足を運んでいたこと、

ある晩にダンスの現場で突然つわりが起き、走って家に戻り父親に病院へ運んでもらい、
そこで小さなダンスホールクィーンMICHELLEが誕生したこと‥などの思い出を語った。

MICHELLEがまだ子供だった頃、KARENはバレエダンスも含めてありとあらゆる種類のダンスをやらせた。

「バレエのダンスはMICHELLEには向いていなかったの。
なぜってMICHELLEはアップテンポな音楽が好きだから。
ダンスは私にとってプライドであり喜びだったわ。
だってその当時の私は踊ることだけが唯一の楽しみだったから」

ここでMICHELLEが不意に言葉をさしはさんで無表情に話始めた。

「ダンスホールクィーンで賞を獲得してハイプになっているダンサーもいるけど私はみんなとは違うわ」

昨年"Miss Hedonism 2003"にも選ばれたMICHELLEは、
そこでもパーティアニマルとなり注目を浴びた。

「私は外に出るのが大好きなだけ。
パーティに出かけたり、はめをはずして楽しむことが大好きなのよ」

“踊る”ということは決して楽なことばかりではないとMICHELLEは指摘した。

「時々踊り過ぎて体中が痛い時があるの。氷で全身を冷す必要があるくらい‥」

MICHELLEは2003年のダンスホールクィーンに選ばれ、その王冠を手に入れた。

そして日本から進出した2002年のクィーン"BASHMENT JUNKO"の手によって
賞金$70,000とSLAM CONDOMのトロフィーが手渡された。

しかし、その後、数時間の睡眠の間にその王冠は何者かに盗まれた。
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「DANCEHALL QUEENは私の人生を変えた。
ダンサーの仕事はとてもハードだけど楽しいわ。
だって私は1秒足りとも楽しむ時間を無駄にはしないから」

「クィーンになって以来、いくつかのカリブ島でショーをしたり、
FRISCO KIDの"GALLOP"やHARRY TODDLERの"INTERNET"などの PVにフューチャーしたりと
MICHELLEの才能を知ってもらうチャンスが訪れたの。

私の才能が皆に注目されるようになって、たくさんの出演依頼が来るようになった。
こんな事、想像もしてなかったわ」
とMICHELLEは感謝するような声で語った。

「いずれは自分のショップをオープンするの。
そしてマッドな動きを学ぶためのダンスクラスを開講するつもりよ。」

彼女にはもう一つのプランがあった。

それは踊ることから更に上を目指し
LADY SAWやCE' CILEのような女性DEEJAYになることだ。

MICHELLEは自分が"SINGJAY"であること、
そしてレコーディングはまだだが
今現在はDOWNSOUND RECORDSでVOICINGしていることなどを話してくれた。

彼女のチューンが今後BUSするかどうかは時だけが教えてくれることだろう。

HOT MONDAY 1st ANNIVERSARY 2003のDVDはこちら

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(Lady-K)

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